※2020年2月18日に開催された「学士ラガークラブ第7回ミニ講演会」での講演を掲載させていただきました。
講師:本田祐嗣氏(京大H6卒)
公益財団法人ラグビーワールドカップ2019組織委員会 企画調整部長、レガシー部部長などを歴任(在籍期間2012〜2019年)
「今日の講演会のタイトルは『夢がかなったワールドカップ、夢が広がるこれから』としました。ワールドカップの開催は本当に夢だったんです、ラグビー界にとっては。」
私は2012年からラグビーワールドカップ2019組織委員会に関わりましたが、招致活動は2003年に始まりました。なので耳学問にはなりますが、その頃の話もご紹介しつつ、2012年以降のことは実体験にもとづいてお話できたらと思っています。また、ワールドカップは終わりましたが、これからの10年の間に学士ラガークラブの皆様の母校のラグビー部が多く100周年を迎えます。そのことにも触れたいと思います。
さて、年表を順に追っていこうと思います。慶應ラグビー部、1999年に創部100周年でした。ダントツで早いですね。早稲田ラグビー部は2018年でしたから。こんなに違いがあるとは今回調べるまでわかりませんでした。同志社は2010年ですね。
2003年にワールドカップの招致が始まりました。FIFAワールドカップの次の年です。サッカーの盛り上がりを見て、ラグビーもワールドカップを開催したいと強く思ったと、当時を知る方から聞きました。一緒に仕事をした徳増浩司さん(2012年当時の組織委員会事務局長)によると、IRB(国際ラグビーボード、現在のワールドラグビー)のCEOに相談したら、日本でも開催できる可能性はある、アジアにラグビーを拡げることには意義があるといった反応があったそうです。そして、日本協会の幹部はその年にオーストラリアで開催されたワールドカップの決勝戦にワールドラグビーの幹部を訪ね、直接招致の意思を伝えたそうです。
招致を開始した頃の日本代表はオーストラリア大会で全敗ながら強豪相手に良い試合をして “Brave Blossoms” という愛称で呼ばれるようになりました。一方で、その後の戦績は振るいませんでした。2004年のヨーロッパ遠征では100点ゲームでの敗戦もあり、お酒が入って本音が出たウェールズ協会の幹部から「100点取られて負ける国にワールドカップは行かないよ」と言われたそうです。
皆さんは日本がワールドカップの招致に二回挑戦したことをご存知でしょうか? 最初のターゲットは2011年大会でしたが、結局ニュージーランドが開催国に選ばれました。この年は3月に東日本大震災が起きた年です。日本で開催することになっていたら、どうなっていたかわからないですね。ニュージーランドも同じ3月にクライストチャーチが大きな地震に見舞われました。
日本は2011年大会の招致を逃しましたが、再挑戦しました。それが今回の2019年大会です。開催が決まったのは2009年7月28日。2015年大会と2019年大会の開催地が同時に発表されました。この年に日経平均株価が1980-90年代のバブル後最安値を付けました。経済が底の時期だったんですね。
年が明けて2010年にはラグビーワールドカップ2019組織委員会が発足しました。それまでの大会を開催してきた伝統国と比べて、大規模な国際試合の開催経験が乏しい日本は早い時期に組織委員会をスタートしたようです。IRBからそうするように言われたとも聞きました。当時は日本人の事務局長、フランス人のアドバイザー、それに1、2名の日本人スタッフという陣容だったそうです。私が加わった2012年春、組織委員会のオフィスにいたスタッフは6〜7人だったと記憶しています。
さて、ここからは実体験にもとづくお話です。私の最初の仕事は大会予算の見直しを手伝うことでした。東京海上グループのコンサルティング会社から独立して活動していた私は、「リスクマネジメントと保険」というパートを担当しました。その仕事はほんの短期間で終わりましたが、一年後の2013年7月、「開催都市ガイドライン」という資料を作成する仕事をするためにもう一度呼んでいただきました。組織委員会ではその年の初めから開催都市を募集する準備を始めており、それに加勢するためでした。それまではJTBから派遣されていた同い年のスタッフがひとりでその業務を進めていて、2014年に立候補を募る、そのために2013年中に開催都市になるための要件を通知する予定で、5月に全国の地方自治体に開催都市もしくはチームキャンプ地になることへの関心をたずねたところでした。
2013年8月、組織委員会はIRBの推薦を受け、Matt Carrollさんを暫定COOに迎えました。オーストラリアでラグビー協会のナンバー2、ラグビーワールドカップのGMを務め、プロサッカーリーグ(Aリーグ)の創設にも幹部として関わったスポーツビジネスの経験が豊富な方でした。IRBは日本ラグビー協会や組織委員会に対して有能なCOOの登用を早くから提案していたそうで、実際に日本人の候補者が立てられたこともあったそうですが実現しなかったそうです。
Carrollさんは、開催都市の選定を始めていた組織委員会がマーケティングとファイナンスのリーダーを置いていなかったことにとても驚いていました。なぜなら、開催都市つまり試合会場が決まると販売可能な座席数がおおよそ固まり、大会の収支に大きな影響を与えるからです。オリンピックやFIFAワールドカップと違って組織委員会が放映権やスポンサー権を持たないラグビーワールドカップでは、チケット販売が収益獲得の柱でした。CarrollさんはIRBから組織委員会の組織づくりを依頼されていたそうで、マーケティング、ファイナンス、ベニュー(会場)、プランニングの4名のリーダー、それを統率するCOOを軸とする組織づくりと採用活動を進めました。その中で、私自身はプランニングのリーダーの役割を与えていただきました。2013年は東京が2020年の夏季オリンピックの開催地に決定した年でもありました。9月のことでしたね。
2014年4月に元総務省事務次官の嶋津昭さんが新しく事務総長(CEO)として着任しました。そこから大会終了まで、嶋津さんをトップにした体制になりました。前出のCOOの採用活動は最後の最後に中止されました。この年、大会に向けたプランニングとして開催都市選定、ファイナンスのリーダーの下での大会予算の見直し、私が担当していたマスタースケジュールの整備を行いました。あと、5月に国立競技場でアジア最終予選、日本対香港戦が実施されました。旧国立競技場での最後の試合です。皆さん、ご記憶でしょうか?
2015年3月2日(日本時間)に開催都市が発表されました。発表はダブリンで行われ、事務総長など数名は当地に飛び、私も含め残りのメンバーは日本で中継を見ていました。この頃の組織委員会は総勢20名に満たない陣容でしたが、4月に中央省庁と開催都市の地方自治体から派遣を受け、また民間企業からの派遣や直接雇用も得て50〜60名の所帯に拡大しました。
この年はイングランド大会の開催年で、それが終わるといよいよ次は日本大会というムードが高まっていましたが、7月17日に新国立競技場建設計画が白紙撤回される事態が起こりました。新聞報道をご記憶の方もいらっしゃると思いますが、9月18日のイングランド大会開幕を前に、日本が2019大会を開催できなくなる可能性が取り沙汰されました。
新国立競技場は12開催都市のひとつであった東京都の約8万人収容の試合会場で、開幕戦と決勝戦の会場になる予定でした。予定していた中で最大のスタジアムが使えなくなることは収益力を低下させることも含めて大きな衝撃で、日本ラグビー協会と組織委員会の幹部はワールドラグビーに対して、対応策をめぐるさまざまな交渉に奔走していました。代替開催に名乗りを上げたと噂されていた南アフリカに日本がイングランド大会の初戦で大金星を挙げたことが事態の沈静化を後押ししたと話す方もいましたが、私には真偽はわかりません。
前回大会が終わったばかりの2016年はワールドカップについては目立った出来事がない年でしたが、日本のラグビーにはスーパーラグビー参入という大きな出来事がありました。また、リオデジャネイロ・オリンピックで7人制ラグビー男子が4位入賞を果たし、予選グループでニュージーランドを倒す大金星を挙げた年でもありました。
対照的に2017年は大切なイベントが目白押しでした。5月にプール組分け抽選(プールとは予選を戦うグループのこと)、11月に試合日程とチケット販売概要を発表しました。試合日程はいつどこでどの試合を行うか決め、チケット販売概要にはチケット価格が含まれますので、ここでチケット売上高の上限が決まり、試合を含むイベント運営の大枠が決まりました。
大会の前年から開幕までは組織委員会が最も忙しかった期間でしたが、大会運営の準備はとにかく前に走る状態になっていました。この時期の注目は何といってもチケット販売。2018年1月にまず売り出したセット券(チームパックとスタジアムパック)の抽選申込が延べ席数換算で60〜70万枚に達したと記憶しています。そこで当選者を絞り込んだことで売り切れ感が生まれ、先行・一般抽選販売、一般先行販売にかけて常に大きな需要が生まれました。チケッティングのリーダーはかつてJリーグやプロ野球のチーム経営に関わった方でした。その方曰く、細かくフェーズ分けされた販売方法にワールドラグビーは「ファンはそんな複雑な方法を理解できるわけがない」と大反対したそうです。オリンピックやラグビーワールドカップのチケット販売で実績を挙げたアドバイザーも反対していたそうです。我々のリーダーは「私は売れると確信していましたよ」「海外の人は日本の市場をわかっていないんですよね」と話していました。面白いエピソードです。
大会直前期になると大会後への関心が高まり、レガシーをテーマにしたメディアの取材が増えました。また、ネーションズカップ構想や日本のサンウルブズのスーパーラグビーからの除外、日本ラグビー協会の経営陣入れ替え、ジャパンラグビートップリーグの新構想など、大会後のテストマッチやリーグの新たな形を目指す動きが表面化しました。ネーションズカップ構想は実現しませんでしたが、トップリーグの新しい形はワールドカップ後の日本のラグビーの形に大きな影響があるでしょうから注目です。
2019年9月20から11月2日までのワールドカップ期間の盛り上がりは皆様ご存知のとおりです。日本中、そして世界にあれほどの影響を与える大会になって、本当にラグビー界の夢がかなったと思います。「今までの人生でこんなに大声で君が代を歌ったことはなかった」という人が万単位で生まれたのではないでしょうか。私はそれがこの大会を日本で開催した最大の価値だったと思っています。
2019年はオックスフォードがラグビーの150周年でした。2021年にはケンブリッジが150周年を迎えます。2023年はラグビーの起源とされるウィリアム・ウェブ・エリス少年がボールを持って走り出した出来事から200年にあたります。その年に開催されるフランス大会では、セレモニーでその200周年に触れるかもしれません。
日本では、2020年代に皆さんのご出身大学のラグビー部が次々と100周年を迎えます。2021年に東大、2022年に京大、2024年に北大、2025年に東北大と九大、2026年に名大です。阪大は2031年です。また、ラグビー部が100周年を迎えられる高校もあるのではないでしょうか。次の10年は母校の100周年をきっかけに、またみんなでラグビーを盛り上げていける楽しみがありますね。
日本ラグビー協会は20年以内にもう一度ワールドカップを開催したい意向を表明しました。2019年に感動を覚えた子どもや若者が素晴らしい大会を招致し、実現してくれることを期待しています。今回の日本大会の開催には欧州やオセアニア、北米などから数十人のスタッフが参加しました。その人たちは2015年のラグビーワールドカップや2012年のロンドンオリンピックなどの経験を持って日本でも活躍しました。国を超えて大規模なスポーツイベントに関わったり、スポーツのリーグやチームなどでビジネス経験を積んだりしている人たちの転職市場が存在します。今のところ2019年のラグビーワールドカップを経てそこに加わる日本人は出ていないと思いますが、次に日本で開催する頃には国境を超えて経験を積んだ日本人がたくさん生まれていたらいいなと思っています。
H6年卒 本田祐嗣 (学士ラガークラブ第7回ミニ講演会より再編集)
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