古い資料が出てきた。大学ノートに書かれたと思しきB4の冊子。「THE★UJI STAKES 1986」とある。そう、思い出した。新入部員たちの“晴れ舞台“! ただし、ラグビーではない。競馬ならぬ「競人」というイベントである。
京大ラグビー部は、春シーズンを終えてから夏合宿までの間、短いオフに入る。体の小さな我々にとって、体力を回復する貴重な時間であり、特に大学の厳しい練習に耐えてきた新人にとっては、待ち望んだお休みだ。このオフ直前、春シーズンの打ち上げと称して開催されるのがこのイベントで、なんと15回の歴史を誇っていた。
1986年の新入部員は27人。我こそはと入部した高校ラグビー経験者よりも、初心者のほうが多かった。いったい何をさせられるのか? おっかなびっくりで臨んだものだ。
資料(画像2)を見てほしい。1枠から7枠まで、なにやら記号のようなカタカナが並んでいる。これは一人一人に与えられた「馬名」。つまり、「出走表」である。これが4レース組まれている。「フィットネス・レース」「サバイバル・レース」「山ちゃん特別」、最終組は「第15回 宇治ステークス」である。それぞれ6~7人が100m×70mのグラウンドを1周するのだが、レースごとに笑える特徴がある。「フィットネス・レース」は、亀のようにハイハイしてスタートし、コーナーでスクワット10回、走って次のコーナーで腕立て10回…とにかく体力自慢の競い合いだ。「サバイバル・レース」は、“麦ジュース”をイッキ呑みして走る、いかにもひと昔前の「過酷」なレース。先輩の名前を冠した「山ちゃん特別」は、めくったカードに書かれた「先輩」をおぶって走るという、ほのぼの?借り物競争。最終「宇治ステークス」はやはり精鋭揃いで、のちに主将・監督を務める溝口正人や、将来、医者や一流企業の執行役員に出世する者もいた。
ユニークなのは「馬名」だ。マラソンの宗兄弟に似ているから「宗クラテス」、奥村は「オクムラチヨ」、染宮は「ソメミヤソメノスケソメタロー」となり、横野は「タテノヨコノウエノシタノ…ヤイノヤイノイウナ」、中年のお父さんっぽいというだけで「パパトヨバナイデ」になった者も(妻の名はキャサリンという設定まで与えられた)。入部しなさそうな某には「コナイカモシレナイ」。唯一ラグビーの実力から名付けられたのは、タックル大好き、「赤い通り魔」。ほかにも「オヤジノ罪」「メカタデドン」「ナニヲイウ」…とまあ、先輩方もよく思いついたものだと感心したものだ。
では、レースはどんなものだったのか? 「サバイバル」に出走した私は、世界が回っていたことしか覚えていない。ただ、練習では厳しかった先輩たちが、大声で笑い、声をからして声援を送ってくれる。それに応えようと、笑いをとりながらトップをめざす。あの日は、我々新人を「仲間」へと格上げするための儀式だったのだ。
ちなみにこの後、きちんとラグビーの試合もした。恒例の「1回生VS2回生」特別試合。それまで最下級生だった2回生は張り切ったものだ。ただし2回生はFWとBKを入れ替えるハンデが与えられるが、これがまた楽しい。2回生になったとき、FWの私はスクラムハーフで出ることになっていたが、試合直前にトイレの個室で気合を入れていると、ちょうどSHの1年生が入ってきた。「おれのトイメン(相手方のプレイヤー)、柴野さんや。嫌やな~」「あの人、パスせんとぶちかましにきそうやなあ」「痛そ~」。こっそりトイレを出た後、試合で念入りに当たりに行ったのを覚えている。これも先輩-後輩の絆。彼はその後、名選手になった。
京大ラグビー部の伝統は、この上下関係にある。三高時代から受け継がれてきた“自由闊達”な土壌。そこに育まれた、上下が一つになって楽しみ、かつ精進する気風。昭和の当時も、今も、脈々と受け継がれている。
H2卒 柴野 恭範
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