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019: 同期の日野公嗣君、森田徹男君を偲ぶ(S59 平田 史明)

更新日:2021年10月2日


写真1:日野公嗣君(1982年8月)

 現役時代を一緒に過ごしたメンバー、1回生時の2、3、4回生、4回生時の1、2、3回生と同期を真ん中にした7年度の繋がりは強く、何十年経っても会えば、その当時の関係に立ち戻ります。1年留年して、5回生は、学生コーチでしたので、昭和55〜60年度(1980年4月〜1985年3月)のシーズンを農学部グランドと宇治黄檗グランドで過ごしました。

既に鬼籍に入った同期が二人、1982年9月に20歳で亡くなられた日野公嗣君と2017年7月逝去の森田徹男君です。


 私は、鹿児島の鶴丸高校卒で、中学、高校が柔道部、大学になってラグビーを始めたラグビー初心者、日野君は、福岡の小倉高校卒で少しラグビーをやっていた経験者。同じ九州出身で経験不足のフォワード。同期15名の中でも、大阪で、ラグビースクール、中学校、高校で活躍していた堀田君、森田君、岡市君、岡崎君は、1回生でも即戦力で、レベルが違うと感じていました。


 1980年5月の新歓コンパは、新京極通四条上ルの「静」の2階に集合し、新人毎に二級酒一升瓶が置かれ、飲めるところまで飲ませる、その後、鴨川の河原に降りて、向こう岸まで川を往復する昭和な歓迎。

 8月の夏合宿は釜石、新日鉄釜石の合宿所で10日間。京都からはるばる、電車を乗り継いで釜石に辿り着いた夕刻に見た雨に煙る高炉の煙突をいまだに覚えています。行きの新幹線で、願野さん、亀岡さんの指示の下、風呂桶を片手に乗客に「お風呂はどこですか」と訊くという通過儀礼もありました。当時の新日鉄釜石のメンバーは、フォワードに石山、和田、洞口、千田、瀬川、小林、バックスに坂下、森、谷藤、松尾(当時は怪我)とジャパンクラスがひしめいていました(敬称略)。そんな面子に臆せず挑む清野主将、新林副将率いる1軍のメンバーをすごいなと見ていました。


 1981〜84年の夏合宿は、山中湖。朝晩涼しいのですが、きついばかりで終わることばかり考えていました。特に嫌だったのは、慶応大学とのスクラム練習。関西の白い砂ではない、黒い土で、真っ黒になってスクラムを組んでいました。

 夏のシーズンオフに、日野君から、「いつ帰省する予定か」と聞かれて、「色々と行きたいところがあるので、この夏は帰省しない」と答えたところ、「この親不孝者が」と言われたことがあります。親より先に死ぬ逆縁以上の親不幸はないと40年ほど前に言われた言葉を覚えています。

写真2:1981年秋、関西Aリーグ関西大学戦(1番日野 2番岡村、3番木原、4番平田、6番江口)

 スクラムの最前列、プロップの日野君は、1982年9月15日14:20キックオフで大阪の長居陸上競技場で行われた慶応大学との定期戦に1番左プロップで出場しました。試合終了直後に倒れ、9月19日に帰らぬ人となりました。最初、軽い熱射病だといわれていたので、すぐに元気になって、グランドに戻ってくると思っていました。しかし、急激に症状が悪化しました(当時、病名が無かった「熱中症」。現在、暑い時期の公式試合では給水休憩あり)。1年上の主務の佐土井さんから、「日野はもう無理だと思う」という電話連絡を受け、夜中に京都から大阪に移動する電車で窓に向かって、「なんで日野が」とつぶやきながら泣いたのを覚えています。


写真3:左)試合パンプレット表紙 / 右)メンバー表

 ご両親が1983年8月に発行された「若き京大ラガーの死 公嗣の記録」という文集(写真1、2の引用元)があります。「息子逝き くれない濃いし ひがん花」というお父さんが詠まれた俳句に、逆縁の辛さを痛感します。

 毎年秋に同期有志で、小倉の北九州霊園にある日野君の墓にお参りしています。個人的な話で恐縮ですが、日野様ご夫妻には、1988年に結婚式の仲人をお願いし、子供も孫のように可愛がっていただいています。お父さん、隆之様は、2018年10月にご逝去、お母さん、好美様は、小倉で一人住まいです。


写真4:2011年秋、日野くんのご両親と同期。真ん中が森田君

 森田君は、当時の三好監督と同じ文の里中学出身、天王寺高校で国体大阪代表と、ラグビーセンスの固まりのスクラムハーフで、京大のフォワードが強ければ、どれだけその才能が活かせたのだろうと思います。小柄なスクラムハーフが小柄なプロップのような体形になり、肝硬変で2017年7月に亡くなりました。

1983年Aリーグ開幕戦(対同志社大学)。京大唯一のトライは森田君

1983年に日野君が元気で、1回下の宮島君が復活していてくれたら、岡崎、日野、宮島ですごいフロントローを組めたのではと思います。当時は、同志社大学の最盛期で、フォワードに木村、林(敏)、大八木、武藤、土田、バックスに平尾、児玉、東田らのメンバーがいました(敬称略)。

森田君の1期下で天王寺高校主将、高校日本代表のセンター、松永敏宏選手が一浪して、1981年3月に京大と慶応大学の両方に合格し、どちらに進むか悩んでいた時、「迷わず慶応に行けとアドバイスをしてくれたのは、森田さんだけでした」と、1985年1月に同志社大学との大学選手権決勝で接戦し僅差で敗れた慶応大学OBの松永さんが三回忌の時、話してくれました。


 日野君を亡くされた時のご両親の年齢を超えても、1982年9月の出来事は鮮明に覚えています。今後も、小倉の日野君のお墓に参りしますし、森田君の命日には、偲ぶ会を同期と関わりがあった方々でやろうと考えています。


(S59 平田 史明)



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追悼


昭和五十七年九月十五日、慶應義塾大学との定期戦試合終了直後、日野公嗣君(FW、工学部三年、小倉高校出身)が、悪性高熱症のため倒れ、同月十九日不帰の人となった。

以下の追悼文は、この厳粛なる事実を部史に止めるため同年度の監督及び主将によって書かれたものである。

(京都大学ラグビー部60年史への寄稿)


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