"To The NEXT 100 Yrs" 次の100年へ。
《特別インタビュー》
AリーグからB、Cリーグへ。小田さんの監督当時、京大ラグビー部は逆境の時代を迎えた。降格の辛苦、そして、再起への決意と軌跡を聞いた。また当時、心の支えとなった岩前元監督の言葉とラグビー十則について語ってもらった。
▼小田伸午さんの「降格の辛苦と再起の決意」動画はこちら(約12分)
――B、Cリーグへの降格について
Cは(京大の歴史の中で)初めてでしたからね。「まさかCまで落ちるとはなぁ」という、OBの声も聞こえてきました。私がOBでないということが逆に災いするような、自分が至らない迷惑をかけてしまった、そんなような、自分が部外者の心になってしまう。これよくないなぁと思いながらも・・・。それに対して、岩前さんが声をかけてくれました。心に沁みました。救われた気がしましたよ。「楽しむんだよ、小田君」って、二人でトイレ行ったときに言ってくれましたね。「一生の思い出になるよ」ってね。
コーチを引き受けてくれた夏山もそういう気持ちだったんじゃないですかね。みんないい仲間でしたよ。壇上、峯本、夏山、清野、吉川さん、吉岡・・・。そうそうたるメンバーじゃないですか。
でも、いま思うとじわりじわり落ちていった傾向がある。
――平成以降、Aリーグ入れ替え戦には出場できていません
私学に入ってみて理由がわかるんです、選手のリクルートでね。私学は大学としての特徴を出すためにスポーツ推薦入学を公に認めたんですね。関大、関学、立命という伝統校がAリーグに復活して定着した。大学間の競争が激しくなって、入試もアラカルト方式を使って(有力選手を)とれるようになった。関大も始めて10年ぐらい経ちます。私学が京大に代わって上がってきた。その入れ替わりが昭和の最後から平成にかけてあった。いま、佐野君(平成元年主将)と話をしたいね。最後は焦りと迷いだけでやってくれたような気がしますからね。大変だったと思います。
――降格後、スクラムコーチとして再起のためにご指導頂きました
僕が役に立てるところで頑張ろうと。それで腹は決まりましたね。Bに戻ることをお手伝いしたかった。三好先生という人に魅力を感じていた。一緒にやって勉強したいというのもあって。
――スクラム改革がBリーグ復帰の原動力になりました
スクラムが変わったよな。(8人が)固まって本当に強くなるのかという半信半疑があったけれど、本気でいったら本当に強くなれるんだと。小さいやつがやったら、より小さいスクラムを組めると。Cリーグでも小さい方でしたよ。
スクラム全体の性質を決めるのは一人一人の性質と、それが集合するときの性質。集合するときの性質で物質の性質がきまることがあるだろうと、ちょっと学問めいたことを言ったら、室賀君(H3卒※)という、理学部生がうまく言い当てましてね。「先生が言いたいのはカーボンでしょ」と。炭とダイヤモンド、どっちもカーボンでできているけど、プロップやロック一人一人の性質が強いから、ダイヤモンドになっているのではないと。ダイヤモンドは共有結合という結合の仕方で、炭はへき開(結晶や岩石の割れ方がある特定方向へ割れやすい性質)する結合です。同じカーボンの結合の仕方に物質全体としての性質がある。
パックを考えてみるんだと言ったら、あとは学生がみな考えた。ダブルショルダーにして肩を重ね合わしたんですね。(京大は)一人一人がやや軽く弱いから、ガーンと当たられて受けるような形になる、相手が図に載って、へき開しながら我を出して押してくるんですよ。そこでスクイーズコールをかける、「小さくなれ」と。すると、高気圧が低気圧に入り込むように隙間のところに入り込んでいく訳ですよね。どこを押せるかは相手が決めるから、我々が決めることじゃないんだと話したことがあります。
――スクラムではロックも外パックを取り入れました。最初は違和感しかなかったですが
普通は学生さんは嫌がることはやらないんですよ(笑)。それができたのはCリーグまで落ちたから。
――スクラムに自信がつきました
立命館戦でもスクラムトライをとった。同志社戦でもとった。Cリーグでは毎回2,3本ずつとって、得点源だった。三好先生がこうおっしゃったね。「うちはバックスのチームやけど、最後はフォワードで取れ。フォワードがボールを出してバックスが仕留めるんだという認識を変えるんだ」と。ああいうところは自由ですね。変えちゃうんだ、その場に合わせてね。三好先生流の星名ラグビーですね。
そして、必ずなんかドキッとすることおっしゃったね。「試合は30点とられたら31点とればいい。最後まであきらめるなよ」。すごいなぁと思いました。監督ってそういうことを選手に刺さるように言えないとダメなんだなぁって。とくに刺すようには言ってないんです。普通に言っているんです。授業中、黒板に板書しているような感じ。声を張り上げたりしないのにね。奥村(H2卒)にも刺さってたよな?すごい走ってたもん。そんなに走る練習してないよね、ランパス何十本もやったりしてない。柴野(H2卒・PR)がラインアウトのモールからボールをパクリとって出して、ボールより早くブレイクしてきてボールより早く走ってるんだよね。早くボール来いよっていう感じで。それでタックルドボールに対して一番早くピックアップしたのが柴野。あんなことができるんだよね。いまのラグビー観てたら、あんだけ走れるプロップいないでしょ。
――岩前監督と「ラグビー十則」について
岩前さんにグランドに来てもらって「ラグビー十則」について、何日間かにわたってレックチャーしてもらいました。韻が踏んであって詩、ポエムとしても美しいし。ラグビーをちょっとかじった人なら憧れるでしょ。ぞくぞくしますね。Always on Moveなんて。ボールを持ってない人の動きが大事だというけど、それをずばり、それこそがAlways on the Ballなんだと。Off the ballの動きが大事だと、サッカーでは言うんですけど。一つ上をいきましたよね。岩前さんは違うぞと。
(十則について)岩前さんは、わしが作ったんだとはおっしゃらない。いつ頃、作られたのかも不明。昭和3、4年代のカナダ遠征に行かれたジャパンのHBでしょ。その時にこの十則を持っておられたのかもわからない。戦術論でもあるけど、ラグビー文化でもある。豊かな文化を育んでいる土壌がある。京都大学には。
※室賀浩さんは本年2月に御逝去されました。京都大学ラグビー部一同、心より御冥福をお祈り申し上げます。
(2021年2月15日小田さんご自宅にて)
取材:奥村健一(H2/LO、読売新聞)山口泰典(H4/No.8、読売新聞)但馬晋二(H24/FL、読売テレビ)
▼小田伸午さんのプロフィール
1954年、愛知県生まれ。79年、東京大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科を経て、84年に京都大学着任。同大学教養部助教授、高等教育研究開発推進センター教授などを歴任し、2011年から関西大学人間健康学部教授。東京大学ラグビー部で初めて楕円球に触れ、4年生で主将を務める。大学院時代は日本ラグビーフットボール協会の強化委員、代表チームトレーニングコーチの要職に就き、1983年のウエールズ遠征に参加した。京都大学ラグビー部を1984年から7年間指導し、87~89年に監督を務めた。
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