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032: 40年の時を経て現れたビデオ/1980年の早稲田戦(S56 亀岡 友樹/S56 清野 純史/S54 夏山 真也)

更新日:2021年11月26日

 今から約40年前、部室で古びたビデオカセットが見つかった。表に「VS.早稲田 ワセダ(前半)ケスナ!」と書かれていた。それは、当時でさえVHSやBetamaxとの記録方式の違いで、もう市場から消えていたSANYO製(型番:VT-20C)である。再生できるかSANYOに問い合わせたが、もう製品がないということで諦め、ビデオカセットはそのまま片隅で眠ってしまった。

 ところが2020年、100周年事業の一環で、ビデオが残っている1980年の早稲田戦も再生できればおもしろいという話が持ち上がった。いろいろ問い合わせた結果、アメリカの映像復元業者が見つかり、ビデオは太平洋を越えて甦り、約40年ぶりに再生することができた。

 一つ上の吉岡則行主将(昭和55年卒)の代の惜敗の雪辱を晴らした試合である。画質も悪く、前半だけの記録だが、出場した亀岡 友樹(昭和56年卒)が当時の記憶を振り返った。あわせて京大ラグビー部60年史に掲載された清野 純史主将の寄稿文、また、前年の79年の試合に出場・80年は勝利を目撃した夏山 真也(昭和54年卒)からの寄稿文も紹介する。



1980年5月25日(日)

京大 VS 早稲田大(東伏見・早稲田グラウンド)

前半 16-10

後半 12-06

28-16で京都大学勝利

当時のスコアブック。早稲田には、FW、BKともに錚々たるメンバーの名前がある。


 その動画は白黒だった。木に囲まれた東伏見グランドに土埃が舞って粒子の粗い画面は見辛かった。それは40年前のビデオで古いStyleのラグビーの試合だった。

1980年5月25日 京大VS早稲田大の試合映像(前半のみ約17分)(早稲田白ユニフォーム)




 1980年5月25日前年のゲームを評価され、僕らは再度東伏見に呼ばれた。早稲田との試合の為だった。

メンバー表を見ながら「町田だ、長沼も居るぞ、奥脇も、良し本城だ、吉野もいる、フルメンバー一本目だ。」口には出さないが僕らは喰う積りだった。


  京大   早稲田大

1番 宮重 町田

2番 芳山 佐伯

3番 木原 高野

4番 願野  佐々木(忍) 

5番 中村  荒木

6番 江口 寺林 

7番 清野  梶原

8番 金治  長沼

9番 谷垣  奥脇

10番 檀上  本城

11番 沖野  西田

12番 亀岡  吉野

13番 清水   佐々木(薫)

14番 木村  池田

15番 新林 安田


 ゲームは一進一退だった。その時は京都が押し込み早稲田ゴール前でのスクラムだった。FW陣が渾身のプッシュ、一列目①負けない宮重、②一番長くラグビーを続けた芳山、③四角の木原、早稲田はゴールを跨いでキープした。その瞬間⑨谷垣が相手スクラムの中に手を突っ込み「トライ」と叫んだ。「何故だ?」奥脇が呟いた。インゴールはサイドが無い事を谷垣は知っていた。


1980年5月25日(日) 京大 VS 早稲田大(東伏見・早稲田グラウンド)(写真提供:S56 芳山 純一郎)

 それからゲームが動き出した。④願野が入ったラックは何故かでる、相手には出させない、⑤中村のプレーはしつこい、⑥江口のサイドは固い、⑦清野のモールは日本一だ、BKの欲しいタイミングで出る、⑨檀上(現中桐)はキック・パント・パスを屈指してゲームをコントロールしている、⑪沖野は手堅い、⑫亀岡は嬉々としてタックルしている、⑬瞬発力は清水だ、⑭木村は早い、⑮ライン際の堅い新林だ、皆夫々楽し気に走り回っている。

「来る、檀上がスタンド勝負に来る、本城と一騎打ちだ。」次のプレーで檀上のステップ一閃、本城を抜いた。「裏だ、亀岡、早く早く顔を出せ、退け邪魔だ吉野。」対面を突き飛ばしラインの裏に出た、「檀上~」ドンピシャのパスが来た。フルバックを置き去りにして中央にトライ。

映像頭から10分46秒目、マイボールラインアウトより、檀上〜亀岡とつないでトライ



 後は好きに走り回った。抜ければフォローでリターンを貰う、掴まれば直ぐモールでボールを送る、倒れればラック誰かが乗り越える、もう楽しくて仕方ない、チームの皆が考えてる事が判った。心一つにして走り回った。


1980年5月25日(日) 京大 VS 早稲田大(東伏見・早稲田グラウンド)(写真提供:S56 芳山 純一郎)

 ピ、ピー 坂井秀行レフェリー(東大74年卒OB)の笛がなった。えーもう終わっちゃうの? もっと遣ろうよ、続けようよ。


28対16、早稲田に勝った、一本目同士で勝った、最後まで勝ち切った。


アフター・マッチ・ファンクションでは日比野さんの唇が震え言葉に成らなかった。

次のラグビーマガジンの戦績欄、当日の早稲田戦は白抜きだった。


 僕らは有頂天で京都に戻った。春のシーズンだから勝てたのでしょう。残念だが、これが僕らのピークゲームだった。


 白黒の粗い画面から蘇った記憶は鮮明なカラーだった。青空の下、濃青に白いライオンのジャージが何時までも走り回って居た。


(S56 亀岡 友樹)




昭和56年卒/昭和55年度主将 清野 純史(京大ラグビー部六十年史より)


 京大ラグビー部を出てから早くも二年目。あれほど出たくて出たくて、しかし最後まで出場できなかった大学選手権をテレビで観戦しながら思うことは、やはりラグビーは自分で球を持って走っている時が一番だ、ということである。


 私たちの代には、亀岡、願野、谷垣といったような個性的な人間が多く集まっていた。このようなチームは、一般に歯車がかみ合わないと手がつけられないような面をもつが、一たび歯車がかみ合えば思いもよらない力を出すといわれる。しかし、それが幸いにして個性的なプレーをするという利点にもつながった。こと試合になると、俺がやってやるという各自の姿勢のためか、失点はかなり少なかった。


 誰にでも4年間のうちでこれだけは忘れられないという試合が一つや二つはあるものだ。私たちの代のチームメイトが異口同音に挙げるのが、昭和55年春に行われた早稲田との試合である。この試合は、前年、押していながら最後に逆転された経緯があるので、ぜひとも勝たねばならない試合であった。


 前半、檀上が狙ったペナルティーゴールがポールにはねかえったところを願野が拾って中央に飛び込むというトライを皮切りに、フォワードがモール、ラックを支配し、バックスが縦横無尽に走り、谷垣、亀岡のトライを含め28-16で快勝した。宮重、芳山がスクラムで押し勝ったこともさることながら、檀上の冷静な判断、副将新林の一発必中のタックルが光っていた。


 このあと、私たちにとっては三度目の釜石での合宿に入るわけであるが、合宿前に3番の木原が骨折で倒れ、急遽スクラムの再強化という課題が前面に押し出されてきた。最近の京大の低迷は、レギュラーに穴があいたときの層のうすさに問題があるのでは、ということを耳にすることがあるが、このときはまさにそのとおりで、スクラムの穴をうめあわせることができないうちにシーズンに入ってしまった。

 9月に行われた慶応戦。慶応はこの年、対抗戦優勝の原動力となった強力フォワードでのぞみ、京大フォワードは粉砕されたもののバックスのタックルと粘りで14-27なるスコアで敗れた。リーグ戦も、結局スクラムが不安定なままに関学、大商大に対してあげた二勝にとどまった。

 もしあのときこうしていたらとか、あのときああしていたら、とかいうようなことを考えるのはラガーメンにとって恥ずべきことだと思うのではあるが、私は、折にふれスクラムさえとまっていたらなあ、と、思う。


 最後に、私たちチームメイトが口にこそ出さなかったが、いつも感謝していた人が三人いる。多忙な身でありながら私たちと一緒にチームをつくってくださった三好監督。試合の日程から部の運営、OBとのパイプ役まで滞りなくつとめてくれた石脇。ラグビーセンスには目をみはるものがありながら怪我でプレーヤーを断念したものの関西ラグビーフットボール協会の役員をしてくれた河野。本当に頭が下がる思いであった。


“Three cheers for KYOTO UNIVERSITY RUGBY FOOTBALL TEAM!!"




昭和54年卒/昭和53年度主将 夏山 真也


 東伏見の早稲田戦、懐かしいですね。手書きのスコアブックがいい。28-16の立派な勝利です。


 早稲田戦は、京大OBの働きかけで79年から82年まで、京大が東伏見に遠征して実現しました。定期戦復活を目指しての試みだったと聞いていますが、春のオープン戦として開催されたと思います。早稲田の日程が厳しかったこと、早稲田側から関西遠征は難しかったなどの理由で定期戦復活には至らず、83年以降は継続されていないと思います。

前年の79年にいい勝負ができたので、二年続いての早稲田戦が組まれ、80年5月の試合では京大が勝利。早稲田はSHの奥脇キャプテンをはじめ、FW町田・梶原・長沼・寺林、Backsもまぎれもない一軍です。


 早稲田の吉野さんは、1年2年と京大との試合に連続出場し、よく覚えてくれています。

1年の時にペアを組んでいた上級生のCTBは、対面の京大センター吉岡(S55年主将)に何度も外に振られて、京大との試合が最後の1軍戦となったとのこと。

 私は79年は5回生で出場、80年は東伏見で観戦していました。

80年、後半33分攻め込んで、ゴール前の早稲田ボールスクラム、ラインを越えたスクラム内のボールを京大SHの谷垣が抑えてトライ。28-10となり、試合の大勢が決まる。ルールを熟知していた谷垣さんの技能トライで、レフェリングに納得がいかず早稲田N0.8の長沼がボールを地面に打ち付けたのを鮮明に覚えています。

(その長沼さんも亡くなってもう10年がたちました。)

80年春に京大に敗れた早稲田が、秋以降に日本一を狙うチームに成長していくのも凄いですね。


SANYO製のため40年間再生できずに清野教授の机の引出しの隅で眠っていた早稲田戦のビデオテープ。その映像が100周年を前にして蘇ってくれたのも何かの縁かなと思います。

「VS.早稲田 ワセダ(前半)ケスナ!」と書かれたSANYO製ビデオテープ。

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1 Comment


shideyuki43
Jun 04, 2021

この試合のレフェリーを務めた坂井秀行(東大OB、1968年入学)です。

皆様のご尽力で素晴らしい映像が蘇り、お蔭様で私も自分の姿を見ることができました。有難うございました。

ルール上、スクラム内のボールがゴールラインを越えると、当時も今も、スクラムは終了します。SH谷垣さんがそのことを知っていたのには感心しましたが、早稲田は誰一人知らないようでした。しかし、その後、逆に早稲田が同じ形でトライしていました。皆様が教えたのです。

石黒さん、楠目さんがグランド脇の観戦ベンチに座っておられました。試合後気付いてご挨拶すると、にこりともせず、反則に対するレフェリングの甘さを指摘されました。そういう方々でした。

京大、東大、お互いに100周年を迎えます。どの伝統を生かしつつ、今後も是非切磋琢磨していきましょう。

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