思いがけない貴重な映像が出てきた。京大ラグビー部が全国3連覇していたころ、昭和4年元旦の京大―慶応戦を記録した16ミリフィルムである。早稲田大学応援部OBで、戦前の学生スポーツの資料収集・研究をしている笹山俊彦さんから、100周年特設サイトに連絡があった。撮影者は不明だが、国内最古級の映像だ。笹山さんの了承を得て掲載する。
この試合にいたるまでの歴史を少し振り返りたい。
京都・祇園の生まれで、明治の末、京都府立一中生時代に旧制三高と慶応の試合を見て、ラグビーに取りつかれた人物がいた。日本の近代ラグビーの基礎をつくった香山蕃(しげる)である。香山は一中にラグビー部をつくり、三高受験の浪人中に京大ラグビー部の母体となる天狗倶楽部をつくった。三高を経て東大にすすみ、東大にラグビー部をつくるとともに、一中以来の親友谷村敬介に、京大にもラグビー部をつくるよう勧めた。
東大卒業後、香山は秩父宮に同行して1925年5月から英国に留学し、主な試合を観戦するとともに、一流クラブにも所属して本場のラグビーを体験した。
翌年夏に帰国した香山に、京大はコーチを依頼した。小中高を通じての後輩、中出輝彦(1927年卒)は、大文字の送り火の日にたまたま四条大橋で香山に会ったのがきっかけだった、と回想している。香山は「30人以上の部員、足の速いもの、体力の優れたものを集めること」などを条件に引き受けた。
香山が集中してコーチをしたのは2カ月あまりだったが、「今までずいぶん多くのチームをコーチした中で、あれほど思う存分やったことはありません」と振り返っている。香山が目指したのは、タッチラインに安易に蹴りださない、ボールを生かすプレーだった。そして、英国で見てきた一流選手のプレーを、京大の同じポジションの選手に当てはめて教えたという。練習方法は、インターバル走法や7人制ラグビーを取り入れ、週に一度は100メートル走のタイムをとるなど、近代的なものだった。戦術も、クロスキック、ショートパント、シザース、飛ばしパス、フルバックのライン参加など、当時としては画期的で、現代では基本となるものを導入した。
京大はその秋、三高や同志社に勝ったが、大正天皇の崩御で関東遠征は中止になった。香山が手塩にかけたチームが開花するのは翌年のことになる。
その1927年度、後に京大や同志社で指導者となり、日本ラグビー中興の祖ともなった星名秦を主将とするチームが発足した。体格のいいFWと俊足のBKを揃えたチームは、香山の練習方法、戦術をさらに発展させ、関西では無敵となった。そして28年の1月1日、神宮競技場で初めて慶応を11-5で破った。同月7日には早稲田にも14-11で勝ち、初の全国制覇を成し遂げた。
リーグ戦も何もなかった時代、なにをもって全国制覇としたか。要は関東、関西の主要な大学チームにすべて勝つということだ。日本ラグビーフットボール協会発行の「日本ラグビー史」附録の主要記録一覧は、昭和2年度からの「関東、関西、東西対抗優勝大学チーム」を記載している。2年度の東西1位対抗戦は京大16―12早大(京大60年史の記録とは違っている)、3年度は京大12-3慶大としている。4年度が空欄になっているのは、関東の優勝校が京大と対戦のない立教だったからだろう。この年度も、全勝大学チームとして京大の名をあげている。
さて、この映像である。前年、東京遠征で初めて破った慶応を、この年は京都に迎えた。北白川のグラウンドは1924年にできて5年目。東西の1位同士の対戦とあって、寒風のなか3万人の観衆がグラウンドを取り囲んだという。
主審を務めた巌栄一(1927年卒)は、京大の勝因を慶応の7人フォワードに対するエイトシステムの優位性だったとしている。エイトシステムは三高時代に英国ラグビーを研究した選手たちが、そのまま京大に持ち込んだものだ。
一方、プロップとして出場した武田尚(1931年卒)は「名プレーヤー揃いでスムースな球の流れる試合」「バックスの典型的な球さばきで勝った」としている。
映像は8分余りで音声はない。もちろんモノクロだが、京大が数字だけの背番号、慶応は四角い白布に張った背番号をつけているので見分けられる。前半、右から攻める京大がトライしたらしき場面が2度ある。60年史によれば、右ウイングの馬場武夫(1929年卒)と左ウイングの進藤次郎(同)だ。いずれもゴールははずした。慶応がペナルティーゴールを1本決めている。
3分50秒過ぎから後半の映像。やはりトライらしき場面が2度ある。青木倹二(1932年卒)と進藤である。
北白川のグラウンドは、農学部建設に乗じて、当時の会計課長が「農作物乾燥場」だとして、予算を取って造ったのだという。そのときに「農夫詰所」として造られた建物をクラブハウスのように使っていたという。グラウンドの角にそれらしき建物も見える。
(S55 真田正明)
エイトとセブンの差で勝つ(京都大学ラグビー部六十年史より)
昭和四年元旦。東西対抗二戦目の対慶応戦は、東西のナンバーワン同士の対戦である。晴天ながら真西の烈風が吹き荒び、京名物の粉雪さえチラホラする冷たさであったが、京大グラウンドを十重二十重に埋めた観衆は、新聞によれば、関西では未曽有の約三万。自動車のまだ少なかった京都で熊野から北白川まで自動車の列を作り、はとんど走ることができない有様だったという。
試合は終始緊張した好ゲームとなったが、京大が前半馬場、進藤のトライ、後半FWの活躍で青木トライ、さらに、進藤のトライを得たのに対して、慶応は前半のPGのみで12-3(6-3、6-0)で京大が慶応に連勝した。慶応は、FWの巧みなドリブルによる突進、バックスは華凝なパスを右に左に回して京大の乱れを狙ったが、結局は京大を脅かすはどの威力を発揮できなかった。
大毎の「戦いの跡」では、京大の勝因として、京大がチャンスを生かしたこと、フォワード、バックスともラグビーの本領である足を出来るだけ多く用いたこと、エイトシステムの偉力を発揮して積極的なプレーに出たことの三つを挙げているが、レフェリーをつとめた巌栄一は「エイトとセブン・フォワードの力の相違が最も重要な原因」と、大要次のように記している。
「慶応FWはタイトスクラムでは数において京大に勝るとも劣らぬほど球を得ていた。しかし、多くは押されながらやっと出た球なので、それがバックスに渡って鮮やかなパスワークとなるころには、出足のついた京大のディフェンスラインが整っている。慶応FWは崩れた体勢を整えて攻撃に参加するにはハンデをつけられている。このため、後半戦で目立ったように、慶応はせっかく球を得ながらも、ただパスを右に左に回すばかりで、前進は愚か、ともすれば後で潰されそうなのを浅いキックで食い止めるに過ぎないような始末となった。これにひきかえ、京大のエイトはタイトにルーズに、いつでも慶応を押し切るだけの力を蔵して、あるいはキープして、あるいはホイールで慶応バックローの烈しいチャージを避け、FWリーダーの機敏な判断でヒールアウトした球は、ハーフ阿部の美事なパスの伸びとあいまって、スタンドオフ村山をして、慶応藤井、上野のマークから完全に逃れさせていた。このため京大バックスの攻撃は、CTBの失策と出足早の慶応バックの防御に阻まれて途切れたものも多かったが、その一つ一つはいつも一人あるいは二人を余し、常に慶応の後陣を脅かす底力を備えていた。京大大勝のすべてをFWシステムの功に帰することはできないとしても、その第一歩がそして最も重要な部分がそれであったと断ずることは決して早計ではないと信じる」
▼昭和4年(1929年)京大 VS 慶應戦(京大農学部グラウンド)の動画はこちら(約8分)
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