コロナ禍の2020年度、圧倒的な攻撃力で天理大が大学日本一となった。関西勢としては3連覇した1984年度の同志社大以来、36大会ぶりだった。一時はCリーグまで転落したチームを手塩にかけて育て上げた小松節夫監督に、これまでの道のりや指導方針などを聞いた。
――大学日本一、おめでとうございます
関西大学Cリーグまで転落してから大学王者になられた。実は、天理がCリーグに転落した入れ替え戦で対戦したのが京都大だ。その試合を見たが、天理は漆黒のファーストジャージーではなかった記憶がある。
1991年度にBリーグに落ちたことをきっかけに、改革のために「天理に戻ってきて指導してほしい」と声がかかったが、何か不都合があって「もう1年待ってほしい」と言われた。そして、実際に指導を始めた時には、Cリーグにまで落ちていた。連続でB、Cと転落するのはあまりないと思うが、そんな(どん底の)状態だった。
Bリーグの戦績をみると、上位チームに勝ったり引き分けたりと、そんなに弱くなかった。戦力を見て、「Cリーグで戦うチームではない。なぜ落ちたのか。もったいない」と思った。
――「なぜ転落した」という原因は見えた?
初日に練習に行くと、休みかと思うほどグラウンドに選手がいなかった。練習開始ピッタリぐらいに部室から選手が出てきた。始まってもすぐに休憩する、座り込む。終わったらすぐに帰る。そんな何とも言えない光景だった。全国大会ベスト4からわずか7年ほどで、根本的なところが一気に崩れた、という印象だった。
その時に「きちんと教えられずに、選手たちがかわいそうだな」と思った。こんなふうになったのは彼らの責任ではない。少しずつ正常に戻すところから始めた。何より選手たちが楽しくなさそうだった。なぜこの練習をやって、なぜトライを取れた、また取られたのか、ということを細かく話をした。そして、ラグビーは面白いものだから、強い弱い関係なく、ラグビーを好きにさせてあげたい、勝たせてあげたい、と思いながら指導していた。
まずはAリーグに復帰する。そして、関西で過去4度優勝しているので、もう一度優勝させたい。さらに、過去1度だけ全国ベスト4入りしているので、国立競技場に戻って初めて私を呼んでもらった目標が達成されたと言えるのかな、と考えた。
▼天理大学・小松 節夫監督さんの「どん底からの復活〜阻まれ続けたAリーグの壁」動画はこちら(約13分)
――Bリーグに1年で復帰。その直後からAリーグとの入れ替え戦に出場したが、6回挑戦した
当初は「1年でB復帰、次の1年でA復帰、3年目に勝負をかけたい」ぐらいに考えていた。
練習内容などいろいろ報告していた天理高校の田中克己監督にそう伝えると、間髪入れずに「まあ、ゆっくりやれや」とおっしゃった。「10年ぐらいかかってやったらどうや」と。落ちるのは早いけど、焦らずちょっとずつ上がっていけ、ということを言われたのだろう。
――Aとの入れ替え戦で勝てない時期は、試行錯誤の繰り返しだった?
ほとんどが10点差以内だった。春の練習試合は勝つ。でも夏合宿を経て秋のリーグ戦の3か月で逆転されてしまう。Aリーグで大敗している相手を見て、「これなら」と思ってもやられる。Aリーグで下位チームは当たり慣れし、もまれて力がついて、入れ替え戦で相手を軽いと感じるのだろう。「今年こそ」と思いながら、何回やっても勝てなかった。
「自分に勝ち運がない。自分が(監督を)やってるから勝てない」と考えるぐらい追い込まれていた。正直言って、Aリーグで優勝、日本一を目指す時よりも、Aリーグに上がる過程の方が辛かった。
――ついにAリーグ復帰した2001年度は、何かが違った?
その時は、Bリーグで優勝していない。関西学院が1位で天理は2位。直接対決では大敗し、「1位でもだめなのに、今年もアカンか」と半分あきらめの思いで入れ替え戦に臨んだ。相手の摂南には春に大敗し、コーチ陣と「摂南さんは遠くに行ってしまった」と話していたぐらいだった。
入れ替え戦では学生たちがリラックスしていたのか、力を発揮してくれた。その年の学生は明るく、当日試合にいく電車で「気合が入ってないな」と感じるぐらいだった。そんな年にポンと勝ったりするのは不思議なものだ。
(2021年7月15日、Zoomにて取材)
奥村健一(H2/Lo、読売新聞)、山口泰典(H4/No.8、読売新聞)、但馬晋二(H24/Fl、読売テレビ)
▼小松節夫さんのプロフィール
1963年、奈良県生まれ。天理高、同志社大などを経て日新製鋼でもプレー。1993年に天理大のコーチに就任し、95年から監督。
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