2020年度、早稲田大に快勝して初の大学日本一をつかんだ天理大の小松節夫監督に、その道のりを聞いた。
▼天理大学・小松 節夫監督さんの「日本一への道のり〜学生主体で高みを目指す」動画はこちら(約16分)
――Aリーグに上がっても苦闘は続く
Bリーグでは勝てても、Aでは1年目の2002年度は7連敗で最下位。花園大との入れ替え戦は1トライ取られたら負けという、8分間もあった後半ロスタイムを辛うじてしのいだ。あの時逆転されていたら、またしばらくAに上がれなかったと思う。
2年目も最初は連敗で「いつになったら勝てるんだろう」と思ったが、3戦目に後半、大逆転。4年目の2005年度に4位になり、21年ぶりに大学選手権に出場できた。そのころから少しずつ勝てるようになっていった。
――寮をつくるなどの環境整備が勝ちにつながった?
関東の強いチームをモデルに改革を進めた。学生はアルバイトなどもあり、食生活がうまくいっていなかった。Aリーグに上がった当初に一番、差を感じたのがフィジカルだった。寮をつくることで、一体感が出たり、食生活がきちんとしたり、入部してくれたりするようになった。部員が増え、だんだんと体も大きくなり、寮の効果が出始めた。
私は寮長をしているが、割と学生たちに任せていた。昔の寮生はやんちゃな子もいて、夜に抜け出したりもしょっちゅうだった。どこへ行ってたんでしょうか。ともあれ、チームが強くなっていくにつれて問題も少なくなっていった。
――Aリーグ上位校の壁はあった?
4位になった2005年度も、同志社、京都産業大、大阪体育大の上位チームには全く歯が立たなかった。その翌年は7位に落ちた。その時は、後から聞くとチーム内がごたごたしていた。具体的には、4年生が割れていた。でも、シーズン中は寮にいながら気がつかなかった。メンバーの力量には差はないが、負けるには必ず理由がある。その理由をいかに作らないか。細かいところにまで気を配って、いいチームにする。いいチームでないと勝てない、と痛感した。
当時はチームの異変に気がつかなかったが、今なら気づけると思う。その時は4年生のリーダー組としかコミュニケーションを取っていなかった。どうやって勝つか、といった面に必死で、レギュラーではない4年生との会話が少なかった。彼らの不満やチーム状態に気がつかないままでシーズンが終了。主将らが「実は僕たち、仲が悪かった」と漏らした時に、「それは申し訳なかった」と思った。「チームにそういうことがあると、だめになるんだ」と負けて気づかされた。
――柔和な人柄の監督と、おそらく日本一厳しい練習とのギャップが不思議だ
私はあまり追い込まない。7位になった翌年の4年生は明るい学年で、どんどん声を出して、自分たちで走り出した。「雰囲気が変わったなあ」と思った。それぐらいから自分たちで追い込めるようになった。それは今も続いて根付いてきた。
レギュラーに何人出るかは別にして、学生スポーツにおいて4年生の力が大きいとつくづく思う。
――その後は関西を制覇するなど強豪として定着している
2009年度に関西で2位になって全国大会に進出したが、東海大に大差で敗れ、ショックを受けた。試合の後、東海の木村季由監督に話を聞くと、「朝10キロ走ってる」「授業の合間にウェイトしてる」と言われた。関東の才能のある選手たちがそこまでやっているのに、天理は寮など体裁をまねしただけ。この結果は当然だな、と思った。
次の代の主将に決めていた立川直道に「関東を目指してやらないか」と声をかけたら、「同じことを考えてました」。この時に、学生主体で厳しいことに取り組めると感じた。そして、学生たちが朝練で走るコースを決めるなど、日本一を目指し始めた。
その後も2011年度に帝京大に負けて全国準優勝などあったが、また弱くなったりの繰り返し。常勝軍団になりたいが、難しい。
――それは選手の集まり方に差があるのか?
今回はさすがに優勝したので、高校生を勧誘に行っても手ごたえを感じた。でも、それまでは全国の高校のトップチームのレギュラークラスはほとんど入っていない。よく「雑草集団」と言われるが、高校日本代表が天理を選んで入ってくれることはまずない。昨シーズンの日本一メンバーでも1人だけだった。
天理のラグビーは高校も大学も体が小さく、バックスでボールを動かして勝負するのが伝統だ。変わらないこの天理のスタイルに、少しずつフィジカルの強さが加わってきたのだろう。
(2021年7月15日、Zoomにて取材)
奥村健一(H2/Lo、読売新聞)、山口泰典(H4/No.8、読売新聞)、但馬晋二(H24/Fl、読売テレビ)
▼小松節夫さんのプロフィール
1963年、奈良県生まれ。天理高、同志社大などを経て日新製鋼でもプレー。1993年に天理大のコーチに就任し、95年から監督。
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