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061: 逆境から這い上がるー昭和30年前後の回想(S33 城田 育士/望月 秀郎/清水 卓)

更新日:2021年12月22日

 人生にも集団にも浮き沈みはある。波が低いときに次の飛躍への準備をする。その大切さを、昭和30年前後の京大ラグビー部の経験から学びたい。1958年(昭和33年)卒の望月秀郎、城田育士の両氏に聞いた。


 戦後の日本ラグビーは、戦災を免れた京都から復活した。戦後最初の試合は、1945年9月23日に京大農学部グラウンドで行われた関西クラブ対全三高である。(24-6で関西クラブの勝利)。京大にも復員してきた学生が戻り、ラグビー部が復活した。そこに廃校になった海軍兵学校から三高に編入された学生も加わり、一時は黄金期を築いた。

 ところが学制が変わり、旧制高校の卒業生を主体に築いてきた京都帝国大学ラグビー部の時代が終わる。望月、城田らが入学した1954年は、そんなころだ。その年の主将、笹井義雄は医学部生で、最後の三高卒業生だった。海軍兵学校も経験している。危機感を抱いた笹井ら上級生は勧誘に力を入れ、この年14人の新人を獲得した。「私はこれらの人たちに、ジェントルマンシップ、ラグビー精神、真の自由の精神を教えねばならないと思った」と笹井は回想している。


 城田「北野中や京都一中から三高、京大という伝統的なコースが変わった。しかし三高で鍛えた人が主将で、われわれは三高の血を引く最後の世代という誇りがある。名門校で鍛えた同級生もいたが、あとは未経験者の集まり。しかし、4回生の時には関西3位の成績が残せた」



――最初の合宿は高野山だった


 城田「大きなお寺の宿坊に泊まって、本堂や廊下の床磨きをするのだが、それが海兵式。腰をかがめて左右に拭き、足腰を鍛えた」


 望月の父、望月信次(1927年卒)は京大の主将のころ、英国帰りの香山蕃をコーチに招いて、昭和初期の黄金時代の土台をつくった。

 望月「父は出征してニューギニアに行った。300人の部隊のうち200人が帰らなかった。父は帰国したが、陸軍病院で戦病死した。私は京都一中でラグビーを始めたが、父が亡くなったのは入学の1週間後だった」



――鴨沂高校卒業後、2浪して京大に入られた


望月「中学生のころから京大のグラウンドでラグビーを見ているから。2年間、河原町や四条の商店街の広告宣伝を、自転車で配って働いた」



――1回生のころは、宇治校舎だった


 望月「授業が終わると電車に飛び乗り、市電に乗り換えて午後3時の練習になんとか間に合った。銀閣寺あたりに下宿して、宇治にはあまり行かない学生もいたが」


 1、2回生の時には関西の主要6大学で最下位に沈んだ。早慶明にはまったく歯が立たなかった。特に当時の明治には宮井国男という、その後八幡製鉄に進んで6度の社会人大会優勝に貢献した選手がいた。

 望月「1回生の時の明治戦は0-125。試合前に『ボールを後ろに蹴りだせ』と言われた。タッチに出せば(ボールが戻ってくるまで)一服できるから」

 城田「私はフランカーで宮井を捕まえるのが目標だったが、触っても捕まえられなかった」


 望月―谷口(忄に英)三郎のハーフ団は関西学生代表級だったが、FWは未経験者が多く、軽量だった。劣勢を打開するために、1955年度に「京大ラグビーを強くする会」が組織され、翌年度から本格的に指導に乗り出した。望月の父と同期の巌栄一(1927年卒)が会長で監督にも就任し、久保田淳一(1941年卒)がFWを、堀江邦四郎(1950年卒)がBKをコーチした。



――巌監督の指導は?


 城田「とにかく早く立ち上がれ、とか基本プレー。ドリブルもランパスと同じくらい練習した。実際、ドリブルでトライもした」

 望月「クニさん(堀江)は往年の名プレーヤー。地面に図を描いて、こう走ったらここに入れ、と教えてくれた」


 効果は徐々に表れ、3回生の時には立命から4年ぶりの勝利を挙げた。4回生の時には立命、関大に勝って甲南と同率の3位になり、復活の足掛かりをつかんだ。昭和初期のスター選手、星名秦はそのころ、満州から引き揚げて同志社の教授となり、同校ラグビー部を指導していた。星名が京大にかかわるのは望月、城田らが卒業した後の1959年度、本格的に指導に当たったのは翌年度からだ。


昭和32年(1957年)12月15日(花園)、 京大28(12-3,16-3)6関大。関大にも五年振りに勝利。

写真後列左から宮原(2)、野田(4)、大橋(2)、上仲(4)、後藤(4)、二村(4)、岩田(3)、和田(1)、森田(M4)/前列左から望月(4)、田中(4)、城田(4)、川井(4)、清水(4)、加藤(4)、黒瀬(1)


昭和32年(1957年)11月23日(西京極) 京大28(17-11,11-9)20立命館。昨年に続き立命館大に快勝。

写真後列左から片寄(M5)、森田(M4)、川井(4)、二村(4)、上仲(4)、田中(4)、野田(4)、城田(4)/前列左から清水(4)、後藤(1)、岩田(3)




――星名さんがグラウンドに来たことはあるか


 望月「グラウンドの隅の木陰で見ていた。一切口は挟まなかった」

 城田「現役時代は、あまり記憶にない」


 2人は旧帝大のラグビーと星名ラグビーの狭間を支えた世代である。


昭和30年(1955年)の東大戦(秩父宮ラグビー場)。東大陣25ヤード付近のルーズスクラム からSH望月、球を得て突進、そのままトライ。フォローするのは後藤、黒野。(京大ラグビー部60年史/読売新聞より)


――現役に伝えたいことは


 城田「けがをせずに楽しんでもらいたい。練習プラス戦略、戦術だ。工夫して、もう少し自由にやっていい。グラウンドなど、これだけの初期投資ができたことは考えられない。熱心なOBがこれだけ集まっているのも驚きだ」

           

(S55年卒 真田正明)



今回の配信にあたっては望月秀郎、城田育士の両氏に加え、S33同期の清水卓氏にも年初より取材を依頼し、快諾をいただいていた。しかしコロナ禍で取材日程が決まらない中、清水氏は体調を崩され21年8月に逝去された。

上の集合写真二枚及び下の二枚のスナップ写真は、葬儀後に清水卓氏のご子息、清水充様より提供いただいた。写真には「父は、『来年22年7月の京大の100周年式典に俺は参加する』と話していました。父に代わって私が式典に参加したい」とメッセージが添えられていた。

清水(4回生当時)

左から清水、野田(4回生当時)

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