シーズン開幕戦 慶応大定期戦直後の悲劇
1982年度の秋のシーズンは、9月15日の慶応大学との定期戦で始まった。しかしながらここに大きな悲劇が待っていた。残暑の厳しい大阪長居競技場での試合だった。シーズン初戦の公式戦が関東の強豪慶応大学、1番プロップで出場した三回生日野君もさぞ緊張していただろう。しかしながらファーストスクラムは、なんと京大フォワードが慶応大スクラムを押したのだ。これはここ数年、少なくとも4年間は、ありえないことだった。京大は前半健闘するも、後半は地力の差も出て、敗退した。日野君は最後のスクラムもしっかり組み通した。悲劇はノーサイドの直後に起こった。日野君が倒れ、そのまま救急搬送、その後も意識は戻らず、4日後の9月19日に急逝した。病名は悪性高熱症で、スポーツマンを襲う頑張り病とも呼ばれていた。アメリカでも軍隊やアメリカンフットボールの選手でみられ、自分の限界を超えて頑張ってしまうことから発症してしまう高熱症だった。
開幕戦で悲劇に直面し、金治キャプテン以下も大きなショックを受け、一時は部員の中からも直後の10月3日に開幕する関西大学Aリーグの試合も辞退すべきかとの声もあった。ただ主に日野君の同期である三回生を中心に日野の想いを受け継ぎ、リーグ戦を戦うべきだとの意見でチームはまとまり、京大ラグビー部として三好監督の元、1982年度のリーグ戦参戦を改めて決意した。
▼1982年慶應大との定期戦ダイジェスト映像はこちら
関西Aリーグ開幕、半旗の天理戦
日野君の急逝直後、10月3日に関西大学Aリーグは開幕、大阪花園競技場では、関西ラグビー協会も半旗を掲げてくれ、チームメンバーも喪章をつけて戦った。日野の想いを胸に、格上の天理大を相手に、チーム全員の厳しいディフェンスと数少ないチャンスに得点を重ね、ゲーム開始80分の時点では、13-11で京大リード。しかしインジャリータイムを10分近くとられ、8分過ぎに無念の逆転トライでノーサイド、13-15で勝利を逃した。
▼関西Aリーグ・対天理戦のダイジェスト映像はこちら
4年間で初めて大経大に勝利する
京大は、リーグ戦第二戦で大体大に大敗するもチームを立て直し、10月24日西京極球場でリーグ戦第三戦、この三年間連敗をしてきた大経大との一戦に臨んだ。前半より一進一退の攻防を繰り広げつつも、要所でトライ、ゴールを重ね、10-7でリードをしつつ後半を迎えた。しかし後半の中盤、スクラムトライで大経大に10-11と逆転される。そして終盤、密集を突破した峯本からラインの裏で清水がパスを受け、ゴール前で一回生の左ウィング東にパスをするも、相手WTBに一発タックルで倒された。が、そのダウンボールをフォローしていたFB宮島がピックアップし、ゴール下にトライ、ゴールも成功し勝利を決定づけた。更に金治キャプテンのPGも加え、四年目にして初めて大経大から19-11で勝利した。
▼関西Aリーグ・対大経大戦のダイジェスト映像はこちら
当時日本一の同志社戦には完封負け、そして立命館大戦、近畿大戦に勝利
リーグ戦四戦目は、雨天の同志社戦。当時大学日本一の同志社に対し、80分間徹底的なタックルの連続。無得点ながら0-19のスコア、敗戦ではあったが、過去4年間では同志社戦最少得点差のゲームだった。
第五戦立命館大戦には、35-11で勝利、第六戦近畿大戦には31-4で順当に勝利した。しかし近畿大戦で、バイスキャプテンのSH峯本、やはりバックスのキープレーヤーだったCTBの下平が負傷退場、京大ラグビー部としてリーグ最終戦に向けて、痛い負傷者が出た。
▼関西Aリーグ・対同志社大戦のダイジェスト映像はこちら
▼関西Aリーグ・対立命館大戦のダイジェスト映像はこちら
関西Aリーグ最終戦京産大戦
リーグ戦の最終戦は、12月5日西京極球場での京産大戦だった。ここまで京大は3勝3敗、もし京大が京産大に勝ち、点差次第では、大学選手権に出場できる関西Aリーグ3位の可能性は残っていた。しかしこの時すでにBKの要であるBKリーダーCTB下平、更にバイスキャプテンのSH峯本が怪我でチームを離れていた。京大は強力フォワードの京産大に善戦はするものの9-37で敗退、目標だった大学選手権出場を逃した。結果1982年度は、リーグ戦3勝4敗で関西Aリーグ5位に終わった。現役四年間では、1979年以来の関西Aリーグでの三勝だった。
(文責:清水 浩)
「京大ラグビー部1982年度の戦い」のコンテンツ制作チーム
金治伸隆、峯本耕治、清水浩、池城俊郎、佐土井俊之、下平憲義、岩田天植
※このコンテンツへの追加情報・コメント等は、KIUR.F.C. facebookでもお願い致します。
Comments