太平洋戦争が終わり、日本のラグビーも復活した。それからしばらくたった昭和20年代半ばの京大ラグビー部の様子を、岸田健、堀敬二という大先輩に聞いた。2人は1953年卒で、インタビュー当時2人とも94歳。岸田は北野中学から四高(現金沢大)を経て1947年に入学。堀は桃山中から海軍機関学校を経て三高へ、三高で2年目になる1949年に京大に編入された。終戦直後の黄金期と言われる時代は過ぎていたが、旧制高校卒業生や復員学徒が京大ラグビー部を支えていた時代を知る人たちだ。
――ラグビーを始めたのは
岸田「北野中では剣道部だった。戦後、GHQの指令で武道が禁止され、四高でラグビー部をつくった。京大では2年目にラグビー部に入った。医学部薬学科を卒業した後、法学部に再入学してさらに2年続けた」
堀「海軍機関学校では訓練としてラグビーがあった。三高で元機関学校の生徒に誘われた。三高以降はずっとフッカーでレギュラーだった」
――当時は、いろんな経歴の部員がいたそうだ
岸田「旧制高校は三高、甲南、浪速の3つが中心。あとは東京の成城、成蹊あたりから来た。そこに復員組もいた。旧制、新制が半々ぐらい。だから40歳近い人から、早生まれの飛び級で新制に入った17歳までが一緒に練習していた」
堀「お互いみんな呼び捨て。私は入学したとき22歳で、タバコの配給があった。葉っぱと紙がきて自分で巻く。10本ぐらいケースに入れて持っていくと、年下の同期の部員に『堀、タバコくれ』と言われた」
――監督やコーチはいなかったのか
岸田「先輩が勝手に来て、気まぐれに指導した。内藤資忠さんが来ると、遅くまで練習するのでナイターと呼ばれた。龍村元さんはFWに『転んで寝ているのは祇園の芸者だけや』と厳しかった。立命や同志社と仲が良く、立命の監督はよく教えに来てくれた」
堀「能力の高い選手が引っ張っていた。立命は選手もよく練習に来た。ラグビー部が大きな顔をして使えるグラウンドがなかったからだ」
岸田「伊豆大島で合宿したときも、立命の選手が2、3人来ていた」
――記憶に残る試合は
堀「25年の秩父宮での明治戦で、スクラムからの相手の球出しを乱し、明治の主将が『代われ』といって2番に入った。花園での早稲田戦でも、相手の2番をポジションチェンジさせたのが自慢だ。27年元旦に慶応に勝った試合では、インゴールに蹴りこんだボールを、後ろから飛び込んで押さえた」
岸田「慶応は翌日、みんな丸坊主にした」
――用具や遠征の苦労は
岸田「みんな自腹だ。しかし、ユニホームは繊維会社の先輩から格安で調達した。スパイクの修理は靴屋のサンちゃん(松村貞三)が一手に引き受けてくれた」
――生活は厳しかったか
岸田「食糧がなく、みんなで買い物して誰かの部屋で炊事した。当時はみんな栄養失調みたいなもので、60キロもあれば堂々たるもの。明治のFWでも62、3キロだった。東京に遠征したときには、先輩がすき焼きをふんだんにご馳走してくれて嬉しかった」
堀「金はないし、遊ぶ場所もない。学生生活の後半には、バーでビールぐらいは飲んだ。ラグビーファンが飲ませてくれた」
――岸田さんはマネージャーもしていた
岸田「グラウンドの水たまりがひどく、大学当局から150万円の予算を取って暗渠排水にした。授業料が年間900円か1800円の時代だ。当時、創立30周年の行事があり、灰皿やネクタイなどの記念品を作った。在庫ができたので、それを機に部の帳簿を複式簿記にした。靴屋のサンちゃんとグランドキーパーの氏家民之助さんに感謝状を贈った」
――現役に伝えたいことは
堀「ラグビー生活で得られた筋力は宝である。後年、必ず感謝するであろう。魅力あるチームになってほしい。少なくとも国立大のトップに、というのが願いだ」
(S55年卒 真田正明)
2021年11月27日、12月14日ご自宅にて収録。
取材:夏山真也(S54/No.8)/真田正明(S55/PR)
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