1960年代の世界で最も優れた選手の一人として、日本人として初めて「ラグビーの殿堂(Hall of Fame)」入りした坂田好弘さん。ジャージーに込められた伝統の重みや、海外チームと交流する意義、「第一蹴の地」をめぐる思いなどを聞いた。
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――大阪体育大学の監督として、NZ遠征を実現した
2012年まで36シーズン指導した。京都大との対戦はあまり記憶に残っていない。思い出深いのは、1985年の監督9年目に同志社に勝って初優勝したことだ。
1986年、NZ遠征を初めて行った。ラグビーだけでなく、背景にある文化を学生に触れてもらいたかった。私も1969年にNZに半年間、留学して多くを学んだ。部員100人のうちレギュラークラスの30人ほどで約2週間、行く計画だった。旅費を得るため、建築資材を運ぶアルバイトを紹介してもらい、グッズ販売もやった。遠征中は5試合ほどして、宿泊はホームステイで1~2人ずつ滞在して無料。稼いだ分は飛行機代にあてた。
帰国する前日だけホテルに泊まり、ホストファミリーを招待してお別れ会を開いた。翌朝早いのに、クライストチャーチの空港デッキで雨の中、ホストファミリーが見送ってくれた。
それから2年に一度、NZに計4回ほど遠征した。不思議なことに、その後、遠征した年は関西Aリーグで3回続けて優勝した。グリッドを使ったウォームアップ練習など最新の技術を学んだこともあるが、学生が知らないものを知り、「何か」を得たことも大きい。その「何か」は人によって違うし、言葉にするのは難しいが。
2006年に主将が「NZに遠征したい」と3月ごろに言ってきた。7月に行くまで時間がなかったが、何とか実施。雨のグラウンドを使ったあと、自分たちでごみを拾っていた。現地の人たちからも感心された。シーズンに入り、ホームステイでお世話になった方が亡くなったことを知り、チームがまとまった。この年、15年ぶり5回目の関西リーグ制覇を成し遂げた。
――京大は100周年を記念してオックスフォード大との交流を計画している
絶対やるべきだ。海外との交流で新しい刺激を得て、何かが変わる。
私がNZ留学した時、ホストファミリーのお父さんはスコットランド人、お母さんはイングランド人だった。日本ではイギリス人とまとめて言うが、それぞれ違う民族で文化も違うことなど、現地に行ったら知らなかったことが学べる。一人で行くと日本人であることを意識させられるし、日本を代表している気持ちになる。ホームステイする意味はそこにある。
その後、エジンバラ大やインペリアル・カレッジ・ロンドン(ICL)が日本に遠征に来た時に対戦し、いい交流ができた。エジンバラ大はスコットランドの民族衣装であるスカート状のキルトをはいた選手が酔って電車に乗り、警察のお世話になって引き取りに行ったこともある。
「Rugby Opens Many Doors」という言葉が好きで、スピーチの機会があると必ず触れた。ラグビーを通じて様々な出会いがあり、多くのチャンスが訪れる。海外遠征はその大きな機会だ。
――100周年を迎えた京大へのメッセージを
近鉄で最後の試合をしてジャージーを脱いだ時、自分の体がこんなに軽いんだと感じた。ジャージーの重みを背負ってプレーしていたからだ。
京大のジャージーには、途切れず積み重ねた100年分の重みがある。着る選手には責任、誇り、勇気が必要だ。こうしたことを意識できるチームは強い。濃紺はオックスフォード大に由来することを、新入生には最初に指導してあげるべきだろう。そうすればジャージーを着る時に、これに恥じないプレーをしようという意識になる。全員がそれを意識したら、チームは変わる。慶応大はそうした意識を引き継いでいる印象だ。京大に続いて古い伝統がある同志社は少し消えているかな。
京大は日本のラグビーのパイオニア。紺のジャージーが国立競技場を駆ける姿が見たい。
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――「第一蹴の地」の石碑が下鴨神社にある
顕彰会の会長を務めている。1969年に旧制三高のOBが中心になって建立した。近くにありながらあまり知らなかったが、2019年のワールドカップ招致をきっかけに強烈に意識するようになった。2017年の抽選会を日本で開くように個人的に働きかけ、それが京都の迎賓館で実現した。抽選会に合わせて、下鴨神社にある第一蹴の地へのワールドラグビーの理事の訪問もできた。旧制三高は今の京大なんだから、ぜひ現役選手にも訪れてほしい。
▼坂田好弘さんのプロフィール
1942年生まれ。洛北高校では3年連続で全国大会に出場。同志社大1、3回生で全国制覇。1965年に近鉄入社。同大在学中に日本代表に選出され、16キャップ。68年の日本代表NZ遠征でオールブラックス・ジュニアを破った試合で4トライ。69年のNZ留学ではカンタベリー州代表、学生選抜などに選ばれる。大阪体育大学ラグビー部監督を辞任後、関西ラグビー協会会長、日本ラグビー協会副会長を務めた。国際ラグビーボードは2012年、1960年代の世界で最も優れた選手の1人で、今日に至るまで日本で最高の選手として、日本人として初めてラグビーの殿堂入りを決めた。
2022年2月15日、京都市左京区の坂田さん自宅で収録
取材:水田和彦(S52)、奥村健一(H2)、山口泰典(H4)、但馬晋二(H24)
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