元九州大ラグビー部監督の吉村康秀さんに、選手として、監督として、いつも意識してきたという京都大ラグビー部の印象や両校の交流などを聞いた。
――学生時代の京都大との定期戦の印象は
大きく2つある。一つは1回生の時。宇治の合宿所に泊まって、布団が湿って気持ち悪かった。朝ごはんは焼いてないパンだった。試合は京大がハイパントとFWだけで来るようなゲームで、ラグビーをやらせてもらえずに負けた。
二つ目は4回生の時。九州のリーグ戦は、選手権には届かなかったが、史上初めて福岡工大に勝って同率2位で満足して終わった。京大戦まで1か月ほど間が空くが、「勝てるだろう」と思っていたが、負けた。見ていた人にも「面白くなかった」と言われ、気持ちよく卒業できなかった。
――コーチ、監督として対戦した印象は
大阪大に職員として採用され、医学部の監督になった。
その年に医学部の大会で、それまで大会0勝だった阪大医学部が、あれよあれよという間に奇跡的に優勝した。その後も実績を残すことができた。
大阪大学医学部歯学部NEWS LETTER(2018.10.1)より
1999年に九州大医学部の研究室に移り、1年目にコーチ、2年目から監督を5年間、務めた。最初、練習に来る学生が少なくて驚いた。20人もいない部員の半分も来ない。士気は低く、勝てるわけがなかった。その年のリーグ戦は2部で最下位になり、その下の県リーグに転落した。OBからも愛想を尽かされた状態だった。15人集めるのがやっとで、1か月後の京都大との定期戦は、10対118だった。
京大はエンジンの掛かりが遅い印象があったので、学生にハッパをかけて前半2トライをとったが、後半はいいように走られた。「どうせ負けるだろう」とOBの応援はなかったし、選手はかき集めて16人。「けが人が出たら私が出場していいですか」と京大の市口順亮監督にお願いしたのを覚えている。レセプションでは「こんな定期戦では意味がない」と市口さんに言われ、「2年したら噛みつける、3年したら勝てるチームにするので待ってくれ」と宣言した。
定期戦のあと、京大OBの城田育士さん(昭和33年卒)、米良章生さん(昭和38年卒)が「君が九大を強くしたらいい」と言ってくれたのが支えになった。納会で、次期キャプテンの学生から「監督になってくれ」と頼まれた。
――どうしてそんなに弱くなったのか
部員が減っていた。負のスパイラルに入ったらわずか2~3年で弱くなる。
監督になって気をつけていたのは、「おまえら」という上からの言い方はしないことだった。方向性が定まらないだけで、きちんと面倒を見てあげたらやれると希望を持っていた。
京都大に噛みつき、勝てるチームにするというのが、県リーグから九州2部リーグへの復帰と並んでチームの目標だった。
2001年の春シーズン、10年ぶりに東京大との定期戦に勝った。秋の県リーグでも全勝、入替え戦も勝ったので、「京都に勝ったら公式戦は全勝だ」と気づいた。九大は大学院生が2人、チームに戻って来て、2年前よりは戦力は充実した。しかし、出張にかこつけて京都大のリーグ戦を偵察したら、「折り返し攻撃」がツボにハマっていてていて強かった。2、5、8、14番にボールを集めているのが分かったので、「この4人にディフェンスを集中しろ」と指示した。裏に蹴られるのが怖かったが、戦術的に禁止されていたようだ。
試合前夜のミーティングで、自分自身が学生時代に何となく定期戦に臨んで負けて悔しい思いをした話をして、「負けてもいいから悔いのない試合をやろう」と話した。学生は神妙に聞いてくれた。それでも正直言って勝てるとは思っていなかった。
立てた戦術が次から次に当たりリードしたが、地力は京大が上。試合終了間際、九大は完全に足が止まっていた。あと1、2プレーあれば間違いなく逆転されていた。試合時間もやや短かったようで、レフェリーも健気な九大に肩入れしてくれたのかと感じた。よほど京大のコアなファン以外は、観客の多くが九大を応援してくれていた。すべての奇跡が重なって勝てたと思っている。
――京大のチームカラーをどう見ているか
エンジンがかかるのが遅い、というのは、以前は九大をなめていたからだと思っていた。後になって外から見るようになって、フィットネスがしっかりしているので、最後にたたみかけるのが勝ちパターンとしてあったのだと分かった。
関西大、帝塚山大の当時のコーチ(現天理高校コーチ・監督)と3人で飲むことがあるのだが、彼らが口を揃えて言うのは、「京大はどんな試合でも決して心が折れない」ということだ。皆がそこは認めるところだ。
最近で印象に残っているのは、追手門大に負けてCリーグに落ちた試合だ。最初はもっと点差がつくと思ったが、京大は最後まで見事な粘りを見せた。あそこまでの戦いはいまだに想像がつかない。当時、キャプテンだった志村君は凄い奴だと思った。
2002年は大差で負けたが、その後の2年間は九大の方が優位だった。それでも、リードしても追いつかれる。楽に勝ったことは一度もなかった。
私にとって京大と言えばやはり市口順亮さん(昭和39年卒)だ。現監督の溝口正人さん(平成2年卒)や部長の清野純史さん(昭和56年卒)には阪大医歯ラグビー部でもお世話になっていて、良いお付き合いをさせて頂いている。また、元監督の湯谷博さん(昭和47年卒)や只井喜信さん(昭和40年そつ)にもお世話になり、色々な思い出がある。水田和彦会長(昭和50年卒)とも長く良いお付き合いをさせて頂いている。しかし、市口さんだけは「なんだこのおっさんは」と、最初は嫌で仕方なかった。あの人の本領は、九大が勝ち始めてからだった。決して「負けた」とは言わない。「お前、立て直してきたな」とだけ。ただ、京大100周年シンポジウムでの森重隆・日本ラグビー協会前会長の言葉ではないが、「悪い人じゃないです」。市口さんの息子さんとも縁があった(小倉高校の後輩なのは後から知った)。今から6年ほど前、枚方のご自宅に呼んでいただいて、昔話に花が咲いた。
私は、純粋に京大の試合を見るのが好きで、「何かやってくれる」と期待が沸く。
――京大の試合で印象深いのは
只井監督の時にはモールは強かったが、粘りがちょっとなかった。応援してきた京大があっけなく九大に負けたのは、九大の元監督としては変な話だが、少し悲しかった。
溝口監督の1年目には、勝った方が食事をおごることにした。阪大に移ってからも毎年、阪大医歯チームを連れて試合しに行っていたので、九大のチーム力は把握していた。その年、九大はいい選手がいて勝つ自信があった。しかし、その後は九大が強い時もあったが負けている。3年前ぐらいの大阪経済大との試合。結局京大が勝つのだが、最初は劣勢だった。しかし、慌てることなく自分たちの強みを出して一つずつ返していった。その年の九大には「リードしても気を許してはだめだ」と印象を伝えた。
京大は粘り強さが年々増している気がして、見ていて楽しい。道が困難なのはわかっているが、Aリーグを目指して頑張ってほしい。いつも高みを目指している京大が好きだし、尊敬する。九大も見習って頑張りたい。
2022年9月8日取材
H2卒・麻植渉(SO)/H2卒・奥村健一(LO)/H2卒・西尾仁志(CTB)
1993年の学士ラガー・ニュージーランド遠征にて
【京大との対戦記録】
▽学生時代
1984(1回生) 6-12 ●
1987(4回生) 10-21 ●
点差は大きくないが、特に4回生の時は力の差を感じた。不完全燃焼で、社会人でも強いチーム(当時、関西社会人Aの奈良クラブ)でラグビーを続けることを決意し、その後もラグビーと深く関わることになった。
▽コーチ・監督時代
1999(コーチ) 10-118 ●
2000(監督) 10-74 ●
2001(監督) 41- 35 ○
2002(監督) 12-68 ●
2003(監督) 39-22 ○
2004(監督) 41-19 ○
改めて振り返ると、2001年が奇跡的に勝ったことが良くわかる。最後の2年は正直に言って九大の力が勝るようになっていた。2004年の定期戦を最後に監督を退任したが、その際に市口監督から温かい言葉と、初めて「負けました」との言葉をいただき、嬉しかった。
昨年度(2021年12月12日)の京大VS九大定期戦。左)A戦(52 京大-九大 12)右)B戦(65 京大-九大 17)(写真:九州大学ラグビー部ホームページより)
▼吉村康秀さんのプロフィール
福岡県立小倉高校、九州大学卒。日清食品、大阪大学微生物病研究所、九州大学医学部。海外勤務のあと大阪大学に移り、現在は大阪大学医学系研究科ゲノム編集センターでモデル動物開発部門長。九州大勤務時にコーチ、監督を務めた。大阪大学医歯ラグビー部でも監督。
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