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116: 【創成期編8】早明時代と大戦の足音(S55 真田 正明)

更新日:1月11日

 昭和の初め、日本ラグビーの勃興期に京大は3連覇を成し遂げた。しかしその後、ラグビーの重心は次第に東に移っていく。関東の諸大学が競い合って実力を高め、なかでも早稲田と明治が抜きんでて、早明時代が訪れた。関西では同志社、京大がなお力を保っていたが、ときおり早明に勝って「番狂わせ」と呼ばれる時代になった。


 1930年9月、日本協会が全日本選抜チームを組織し、カナダへ初の海外遠征をした。3連覇の余勢を駆って京大からは5人が選ばれた。うち2人は勤務や健康上の理由で辞退し、FWの三島實(32年卒)、HBの岩前博(同)、上田成一郎(同)の3人が参加した。香山蕃が監督を務め、6勝1分けの好成績だった。32年1月にはカナダ代表チームが来日し、5勝2敗の成績で帰国した。2敗はいずれも全日本との対戦。ほかには東西の1、2位校と全関東が対戦した。京大は第3戦として花園で戦い、5-41で敗れた。京大が外国の代表チームと単独で試合をしたのは、この時だけである。この試合には、当時京大文学部で教鞭をとっていた日本ラグビーの生みの親、E・クラークも観戦に訪れたという。


日本代表初めてのカナダ遠征。バンクーバーでの記念写真。(日本ラグビーフットボール協会/日本ラグビー デジタルミュージアムより)

◎日本代表選手団

◇監督 香山蕃(東大出) ◇主務 川目保美(慶大出) ◇主将宮地秀雄(FW慶大出)

◇FW 太田義一(早大) 矢飼督之(慶大) 根本弘道(立大) 岩下秀三郎(慶大出) 都志悌二(明大) 三島実(京大) 増永洋一(明大)

知葉友雄(明大出) 清水精三(慶大) 和田志良(東大出) 櫻井凱夫(東大)

◇HB 松原健一(明大) 岩前博(京大) 萩原丈夫(慶大出) 上田成一郎(京大)

◇TB 北野孟郎(慶大) 丸山虎喜(慶大) 鳥羽善一郎(明大) 田中一郎(明大) 柯子彰(早大) 鈴木秀丸(法大) 藤井貢(慶大)

◇FB 寺村誠一(東大出) 小船伊助(早大)



1932年1月27日のカナダ対京大戦(花園)。(上)前半カナダ、まさにトライするところ。(下)前半カナダがスクラムから球を得て攻撃を開始したところ。

 

▼日本ラグビー加奈陀遠征の映像(ダイジェスト) 1930年9月




「遠征メンバー 上田成一朗氏(昭和7年卒) 所蔵」


この40分余りの映像は、遠征メンバー上田成一朗氏(昭和7年卒)が五十年間戦火をさけて秘蔵していた16mmフィルムである。昭和55年体育の日に宮地キャプテンを始め生存者十五人のメンバーが参加して開催された、カナダ遠征50周年祝賀会で上映されている。

試合やグラウンドでの映像は三か所に少しずつしかなく、内容としては「当時珍しかった海外旅行の記録」で、メンバーが個人的に、あるいはカメラマンを同行させて撮影したものと思われる。

横浜港の出航の風景で始まりハワイ丸船中の映像までで全体の三分の一くらいあり、甲板でのトレーニング風景や、面白いところではレセプションに備えたと思われるがダンスの練習がある。SPレコードをかけて男同士でチークダンス。けっこう上手に踊っている。

服装はそろいのブレザーと、それ以外に自前の背広や学生服、中には和服で過ごす人もいた。

試合会場はバンクーバーのブロンクトンポイントと、ビクトリアのロイヤル・アスレチック・パークであるが、何か所か挿入されている手書きのテロップが不完全で撮影場所については不明なところが多い。大きな花を供えるシーンがあるが、バンクーバーのスタンレーパークにある日系カナダ人戦没者慰霊碑であることが確認できた。

松葉杖をつく若者の映像があるが、岩前博氏(昭和7年卒)で、上田氏は次のように述懐している。

「遠征はこのような好成績をあげることが出来た。遠征早々にペアのSH岩前君がアキ

レス筋を切ってプレー出来なくなった」


 


 カナダ遠征の年の暮れ、京大は同志社に敗れて覇権を失った。翌31年には明治にも初の敗戦。この年度、明治は初めて全国制覇を遂げた。翌年度は、ゆさぶり戦法の早稲田が制し、以後10シーズン、早明が覇権を奪い合う時代が到来した。当時はまだ7人FWが主流だったが、明治は京大のエイトを研究するために阿部吉藏(1929年卒)を呼んで、一人SHの動きを学ぶなどした。30年代末には明治は本格的にエイトを採用し、戦車FWの時代を築いた。


内藤資忠氏(株式会社 内藤建築事務所より)

 低迷から脱しようと京大は32年、京大営繕課に赴任した内藤資忠(1927年卒)をコーチに招いた。満州に転任する38年まで指導した内藤は、豪州が南アを迎え撃った時の試合に学び、「ラック戦法」を採り入れた。敵を密集に巻き込んで優位に立つという考え方だった。この指導によって京大は34年度、当時台頭してきた関学に24-21で競り勝ち、同志社にも35-6で快勝して、3年ぶりに関西の王座を奪還した。関東を制覇して上海遠征帰りの明治にも16-13で勝ったが、慶應に敗れていたために全国制覇にはならなかった。京大はこの後、36、37、39、41年度に関西でNo1となった。



昭和10年1月7日、関東の覇者明治を16-13で倒して喜びの京大チーム(花園ラグビー場 で)。後列右から4人目は内藤資忠監督。

 外国チームの来日も続き、34年には全豪州学生選抜が来た。京大からは、前関西チームにFWの武田尚(31年卒)、三島實、BKの島本伸一(34年卒)、伊地知清(35年卒)、斎藤明(36年卒)が選ばれた。36年に来日したニュージーランド学生選抜との試合には、全関西や全関西学生チームに、FWの渡辺圭一郎(36年卒)、岩男浩平(38年卒)、池田賢(同)、BKで斉藤明、松野昌太郎(36年卒)、小川義晴(同)、平沢通三(39年卒)が選ばれた。


 37年に日中戦争が始まった。戦火が広がり、世界大戦の足音が近づく中、京大の選手たちは、北白川のグラウンドで練習を続けた。関西では上位の成績を保ち、全関西や全日本代表などにも優秀な選手を送っていた。




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