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126: 現役時代の思い出・1976年大阪体育大学戦〜1枚の写真から〜(S52・林 伸治)

1977年3月、私は8人の仲間と共に、京大ラグビー部を卒業した。それから40年後に、我々9人の初めての同期会が京都で開かれることになった。当初、9人全員が参加する予定であったが、当日になって、丸橋広之君が参加できなくなった。その日の朝、散歩中に倒れて救急車で搬送されたとのこと。幸い、大事に至ることはなかったが、我々も、自身の健康に留意しなければならない年齢になったことを痛感させられた。他の8人は、祇園の料亭に集い、一献傾けながら旧交を温めた。その席上、幹事役の南出聡君から、我々9人が揃って写った写真があるという。はて、現役時代にそのような写真を撮ったことがあっただろうか? 全く記憶になかった。その写真は、インターネットで見ることができるという。翌日、宇治グランドに出向いた我々は、クラブハウスにあったパソコンを借りて、その写真を見た。すると、そこには、我々9人が、揃って学生服姿で写っているではないか。しかも、私はニットキャップを被っている。このような写真、いつ、どこで撮影されたのか、思い出せなかった。しかし、その後、記憶が蘇った。そういえば、4回生のとき、頭に怪我をしたことがあったなぁ・・・。


後列 南出・林・吉岡・丸橋、福地。前列 宮原、小野田、水田、山田(敬称略)
後列 南出・林・吉岡・丸橋、福地。前列 宮原、小野田、水田、山田(敬称略)


我々が4回生のときの同志社戦は、私を含め怪我による欠場者が多く、4回生ではFWリーダーの丸橋君だけが出場した。対する同志社大学はベストメンバーで、実力差は歴然としていた。しかし、試合が始まると、先制したのは京大であった。1回生のセンター吉岡則行君がこぼれ球をひっかけて、同大の俊足バックス陣を抜き去り、そのままトライを挙げた。しかし、このトライで同大メンバーの闘志に火が付き、その後、同大は全く攻撃の手を緩めることなく得点を重ね、前半で大差が付いた。京大サイドはすっかり意気消沈したのであるが、後半も先制トライを挙げたのは京大であった。後半開始早々のラインアウトで、吉岡則行君にボールが回ると、アウトサイドセンターとのダミーシザーズの後に鋭いステップで相手ゴールに向かい、またしても、同大のバックス陣を抜き去りにしてそのままトライを挙げた。しかし、このトライで、明らかに同大メンバーの逆鱗に触れ、その後、同大は前半以上に攻め続けた。その結果、京大は記録的な大敗を喫した。

試合後の両校のミーティング(この試合、定期戦も兼ねていた)が終わったとき、当時の大楽監督から声を掛けられた。「なあ、林よ。次の試合、エイトで出てくれよ。頼むぜよ」と。そういえば、この試合、当時、不動のNO8であった3回生の吉田耕治君(次年度キャ

プテン、元京大ラグビー部監督)も欠場し、翌週のリーグ戦にも出場できないという状況であった。


週が明けると、私は、NO8のポジションで練習を再開した。しかし、木曜日に、試合形式の練習中に頭を踏まれた。少し出血があったので、医者に行き、数針、縫ってもらった。処置が終わると、傷口にはガーゼが当てがわれ、そのガーゼを固定するために、ネットが頭に被せられた。当時、多感な青年であった私は、ネットを頭に被った姿を、「かっこわる~」と思ったのでした。しかし、翌日、同期の宮原英臣君(スクラムハーフ兼マネージャー)に出会うと、紺色のニットキャップを被っているではないか。それを見た私は、これはちょうどいいと、嫌がる宮原君から、無理やりそのニットキャップを借り受けて、傷を隠すように被ったのであった。

日曜日、リーグ戦である大阪体育大学との試合には、抜糸をすることなく、ヘッドキャップを被ってNO8で出場した。大阪体育大学は、その年から、同志社大学ラグビー部のOBで、全日本のウイングとして活躍された坂田好弘氏が監督に就任し、ラグビー部の強化に取り組み始めたところであった。

試合は、大体大が先行し、それを京大を追う形になった。京大は、なかなかリズムに乗れなかったが、引き離そうとする大体大に対して何とかこらえ、前半を、16対10と大体大の6点のリードで終えた。後半になると、京大は、徐々に調子を取り戻し、追い上げた。そして、試合終了5分ほど前、相手陣22メートルライン付近で、相手反則によりペナルティキックを得ると、スクラムハーフの宮原君が、チョン蹴りから自ら突進し、相手のノット10メートルの反則を誘った。10メートル前進すると、宮原君、今度は素早くボールを大きく右に展開した。ボールを得たバックス陣は、見事なライン攻撃でボールを回し、ボールを得た右ウィング1回生の佐々木秀樹君が相手陣に飛び込んだ。このトライにより京大は逆転した。その後、数プレーの後に、ノーサイドの笛が吹かれた。その瞬間、フッカーの南出聡君は、私に向かって、「勝った、勝ったぞー」と涙ながらに叫んだのであった(試合結果を調べると、8点差があったので、その後にペナルティーゴールがあったのかもしれません)。

その年のシーズンから、関西Aリーグでは、試合後に、関西協会の主催で、対戦校同士のミーティング(アフターマッチファンクション)が行われるようになっており、この試合後にも、試合が行われた西京極球技場の食堂でミーティングが行われた。しかし、なぜか、そのミーティングには坂田大体大監督は姿を見せることはなかった。


この(学生服の)写真は、この大阪体育大学との試合が行われた西京極球技場のメインスタンドに繋がる階段をバックに、おそらく京大の体育会の方によって撮影され、写真は京大体育会が発行する「濃青」に掲載されたものと思われます。試合前の撮影であり、全員の顔には緊張感が漂っています。


当時、京大ラグビー部では、公式戦には学生服の着用が義務付けられていました。すでに、大多数のラグビー部で、ブレザーにネクタイというスタイルが採用されていたのですが、京大ラグビー部がブレザーを採用したのは、それから数年後のことです。ちなみに、私が着用していた学生服は、私と入れ替わりに入学した谷垣君(スクラムハーフ)に譲られ、谷垣君は、それを卒業まで着用したそうです。

S52春宇治Gにて 卒業する4回生を囲んで
S52春宇治Gにて 卒業する4回生を囲んで

還暦を過ぎて初めて開催された我々の同期会で見い出された写真。その写真により、我々が4回生の時に、最も劇的かつ感動的な試合を思い出したのでした。


1977年(昭和52年)卒 林 伸治


昭和50年〜昭和54年のOB(三條場組)が集合したときの写真(2024年11月30日)
昭和50年〜昭和54年のOB(三條場組)が集合したときの写真(2024年11月30日)

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